02


「イトウさん、連絡つきました?」
「まだ」
 
 トイレから戻ったササキがそう聞いてきたので、首を横に振って答える。ササキは「うええ、まじですかぁ」と言って壁に背を凭れてそのままずるずると床に座った。
「そろそろ行きますか?」
「いや、まだ30分しか経ってない。規定じゃ動けるのは40分経過後だ」
「30分も40分も大差ないと思うんですけどねえええ……」
 ため息混じりの言葉の後に、はああという大きい溜め息。咥えていたタバコを灰皿に押し付けた。
 
「ま、出なきゃいけないことに変わりはねぇしそろそろ準備しててもいいだろ」
「はーい。じゃあ車の鍵取ってきますね」
「任せた。……あ、喫煙所の壁ってヤニ凄いから座らない方がいいぞ」
 言うのが遅い! と叫んでササキは勢い良く立ち上がった。
 
 
 
 それから後、4、5回電話を掛けても繋がらなくて、車に乗り込んで現場に着くまでの間も何度も試してみたけれどやはり電話が繋がることはなかった。
 
 
 満22歳未満のオリジナルが亡くなった時、自動的に管轄の子育支援部の管理課に連絡が入るようになっている。それからすぐに回収に向かう訳ではなくて、まず管理課の方から保護責任者にその場の状況を確認する。事件なのか、事故なのか、それとも自らの手でボタンを押したのか。それらの確認が取れ次第、目的地の最も近くにいる回収課の職員に指示を送り、現場へ向かわせる。そうして、回収、搬送。
 
 ただ、稀に連絡が取れない時がある。そういう場合は職場なり学校なりどこかしらに連絡して確認を取るのだが、それでも連絡が取れない場合も、ごく稀にある。その際には回収課の職員が現場に向かって直接確認するようになっている。
 
 今の状況がまさにそれ。
 そして、こういう時は大体いつも――
 
 
「一家心中ですかねえ」
「多分」
 
 一家心中。無理心中。いやどっちでもいいけど。
 俺が何度も連絡を取ろうとしていた保護責任者の携帯電話の位置情報が、県境付近のハイキングコースの外れで確認されたらしい。位置情報に多少の誤差はあるというけれども、その算出されたらしい位置は山の中。それから、自宅の駐車場にいつも停まっている筈の自家用車も今日は無い。らしい。
 
「父親の方がこの間リストラされたみたいだとか」
「あー、じゃあ確実ですねえ」
 
 ササキが呟く。
「路肩に停めてる車の中で家族3人練炭自殺、とかなら楽なんだけどなー」
 
 ***
 
 独りごちたササキの願いは、半分当たって半分外れていた。
 
「イトウさん、あっちあっち」
 目的地付近に車を停めて、あたりを見回していたらササキが突然そう言って指を差した。指差した先に目を凝らす。白いミニバン。道無き道を無理やり進んだ結果、タイヤが半分浮いて傾いた状態で停まっている。車に近寄り、中を覗き込んだ。
 
「あれ」
「足りねえな」
 
 運転席には男。助手席には女。車の中で見た資料を思い出す。男の方が高橋秋則で、女の方が高橋綾子。資料に載っていた写真と同じ顔。どちらとも安らかな顔をしているのでドライブ中に疲れてただ小休憩している夫婦に見えなくもない。……用心に用心を重ねてなのかきちんと目張りされたガムテープと、未だに燃え続けている練炭が無ければの話だが。
 それよりも目に付いたのは男の方が手に握っている物だ。握り込んでしまっているのでちゃんと確認はできないが、恐らくあのリモコン。だがそのリモコンの電波が飛ぶべき対象が、車内にいない。
 
「トランク開けますか」
 開けたけれど、中身は空。正確に言うと年季の入ったレジャーシートと清掃用品が少しだけ。
「どこで殺したんだよ……」
 がりがりと頭をかく。何となく面倒臭いことになる予感がしてきた。
「いるならこの山の中ですかねえ」
 ガードレール向こうに広がる山に目を向ける。ハイキングコースからは外れているので整備が行き届いておらず、昼だというのに薄暗い。出来ればもっと暗くなる前には発見して帰りたい。蚊もいるし。
 
 
「結構な斜面だから滑ったら危ねーな」
 ガードレールを跨ぎ、そう言って一歩踏み出した足に体重を掛けて、ずるり。ぬかるんだ土の感触を靴の裏に感じる。げえっと思った時にはもう遅かった。一瞬の浮遊感。口は叫び声を上げる形になっていたと思うけれど、背中を強く打ち付けた衝撃で口からは空気だけが漏れた。
 
 あと、ほんのり走馬灯が見えた。
 
 ***
 
「…………イト、イトウさん……。……だ……だいじょ、大丈夫です、か………」
「…………おお……大丈夫……。…………大丈夫だから……笑うか心配するか、どっちかにしろ……」
 そう言った途端、堰を切ったように頭上から笑い声が聞こえてきた。コイツ後で覚えてろよ。
 
 ゆっくりと立ち上がって泥と落ち葉を払う。幸いにも足は挫いていないし、どこも打っていないようだ。手首を揺らして痛めていないか確認して、肩を回して首を回して――顔を左に向けたら目的の物が横にいるのに気付いた。いると言うよりはあると言った方が正しいかもしれない。もう一度さっきの資料を思い返す。高橋絢香。19歳。心中してた夫婦の娘。
 
「はあ…………。イトウさん怪我無いですか? 何か持って行きましょうか?」
「手のひら擦りむいただけだからいらねぇ。あといたぞ、ここに。多分コイツもそこで滑ったんだろ」
「あー怪我の功名ですね」
 返事はしなかった。癪だったので。
 
「…………。……じゃあ、あの、僕、イトウさんみたいに滑らないように……くっ……あの、迂回して、そっちに……その……降りて、いきますね……ふふ……」
 とことんムカつく。ほんとムカつく。覚えてろ。
 
 ササキがこちらに降りてくる前にさっさと確認してさっさと帰ろう。苛立ちを抑えながら遺体の傍にしゃがみ込み、両手を合わせる。そして遺体の状態を確認したけれど、外傷は擦り傷くらいで特に大きな怪我は無い。骨の一本や二本折れている可能性はあっても、内臓さえ傷付いていなければそれで良し。取り敢えず後はマニュアル通りに脈と心拍と、それから瞳孔が開いているかを確認して--。
 
「…………」
 後ろから草をかき分ける音がする。やっとササキが降りてきた。
「イトウさん、管理課の方に発見したって連絡しようとしたけど電波無いですよここ。取り敢えず目印だけ立てて車まで持って帰ります?」
「おい」
「えっ、はい、なんですか」
「車からAED持って来い。--コイツ、まだ生きてる」
 
 ***
 
 AEDの自動音声が処置は必要ないと告げた。ネガティブでなく、ポジティブな意味で。AEDの案内に添って遺体--じゃなかった。死んでなかった。--高橋絢香のその体からパッドを剥がした。
「使いこなしてますねぇ」とササキが関心したように言う。
「この前講習あっただろ、心肺蘇生のやつ」
「えー、そうでしたっけ」
「寝てたな」
「いや逆にあんなもん寝るに決まってるじゃないですか」
「逆ギレしてんじゃねえよ……」
 
 一息つこうと懐を探る。タバコはあるけどジッポが無い。多分さっき滑った時どこかに落とした。溜め息をついたらササキが「どうかしました?」と聞いてきたので「別に」と答えた。言ったらどうせまた笑う。
 
 それにしても、とササキ。
「こういう事ってあるんですね」
「そういやお前初めてか」
「話には聞いてましたけどね。初めてですよ。見るのも、救護するのも」
 
 リモコンのボタンを押せばオリジナルの生命活動はそこで終わる。けれどやっぱり完全にとはいかなくて、時折失敗もする。不発とでも言えばいいんだろうか。だが、オリジナルが死ななくともボタンが押されたという通知は管理課に届くので、必要であれば回収に向かうし、次はリモコンがきちんと動作するように取り計らうことだってある。
 
「滅多に無いから貴重ですねえ」
 ササキがしみじみと呟いてる。そんな下らない事を言い合っていたら遺体--じゃない。また間違えた。高橋絢香が目を開けた。ガバッと上体を起こす。数回瞬きをして、泥と落ち葉が付いた自分の体を見て、周りを見渡して、俺の顔を見て、もう一度周りを見渡して、深く息を吸って、俺の顔を見たまま、叫んだ。
 
 
「--殺される!」
 
 ***
 
 今日一日でササキは笑いすぎて死ぬんじゃないだろうか。むしろ死んでくれと思った。肩を揺らして、変なキノコでも食ったみたいに時折咳き込みながら笑う。笑い声の合間に「イトウさん悪人面だから」とか聞こえたので蹴った。
 
「あーーーめちゃくちゃ笑った。笑い殺す気ですか」
「死ねよ」
「残念ながら僕ミキちゃんより先には死にません。……はい、これ、身分証。こういう顔だけどこの人も公務員なんですよ。不審なら役所に問い合わせるなりなんなりして頂いても大丈夫です」
 目尻に浮かんだ涙を拭いながらササキが社員証を差し出したので、それに倣って社員証を取り出して眼前に突き出す。子育支援部回収課。佐佐木俊。伊藤遊馬。高橋絢香が社員証に書かれた文字を読み上げて、ほんものだ。と気が抜けた顔でぽつりと言った。
 
「そっか。じゃあつまり、私死に掛けたんですね。あ、ていうか、お父さん達って……」少し沈黙。それから声を潜めて言う。「……やっぱり死んでましたか?」
「……そうですね。というか、やっぱりってことは前兆とかあったんですか?」
 詳しく伺っても大丈夫ですか、とササキが高橋絢香の隣にしゃがみ込む。後のことはもうササキに任せておこうと、2人から少し離れてぼんやり思考を巡らせる。
 
 高橋秋則、高橋綾子の死亡を確認。死因は練炭による一酸化炭素中毒で、恐らく自殺。娘の高橋絢香は生存。手術ミスか、リモコンの整備不良の可能性大。外傷は斜面を滑落した際の擦過傷程度、意識もはっきりしている。保護者両名とも死亡のため、高橋絢香の今後は専門機関に任せることとする。あとジッポ紛失。それなりに高価な物らしいのでなかなかの痛手。以上。
 
 
 ……それにしても。
「高橋絢香なあ……」
「イトウさん、終わりましたけど。……あの子がどうかしたんですか?」
「ああ、何となく聞いたことがある名前なんだよ」
「どうせ前に遊んだ女の子と同じ名前とかそういうオチでしょうに」
 
 ササキの言葉を無視して、立ち上がって泥やら落ち葉やらを払っている高橋絢香の横顔を盗み見る。いや、名前だけじゃない。顔も見覚えがある。気がするだけかもしれないけれど。目が合って、なんですかと聞かれた。
「この人があなたの名前聞いたことがあるような気がするって言ってるんです」
「あ、実は私もなんか聞いたことある名前だなーと思ってて」
「えええ、なんなんですか。僕だけ仲間外れですか」
 
 腕を組んで目を閉じる。足元の葉っぱがガサリと音を立てた。ええと、どこで聞いたんだ、この名前。向こうが知っているのも気に掛かる。こんな若い知り合いはいる訳ないし。頭の中で何度も名前を繰り返す。高橋絢香。タカハシアヤカ。タカハシ。……タカハシ。
 
 …………あ。
 
 
「タカハシの妹!」
「お兄ちゃんの上司!」
 ほぼほぼ同時に叫んで、あ、ほんとに僕は仲間外れのやつでしたね、とササキが呟いた。
 
「あー、そうか、あいつ妹いるって言ってた」
「お兄ちゃん私の話してたんですか? やだなー」
「世間話程度だから詳しいことは聞いてねえよ」
「ほんとですか? じゃあ良かったあ」
 話の腰を折るようで申し訳ないんですけど、とササキがおずおずと口を開く。
「タカハシさんって誰ですか」
「お前の前に一緒に働いてたんだよ。高橋幸人ってやつ」
「へー。……あれ、でも僕タカハシさんって名前聞いたことないですよ。辞められたんですか」
 ササキが首を傾げる。
 
「死んだ」
「死にました」
 声を揃えて言えば、ああそうですか……とササキが肩を落とした。無断欠勤なんて珍しいと思って連絡したら、殺されてた。回収課の人間が回収されるなんて何だそりゃと思った。
 
「私、修学旅行に行ってた時で、帰ってきたら死んでて。最初はお父さんと軽く口喧嘩してたらしいんですけど、段々エスカレートしてったみたいで」
 それは初めて聞いた。
 
「まあ、良い奴だったんだよ。お前とは比べ物にならない程な」
「ちょっとそれは聞き捨てならないですね」
「馬鹿。上司の誕生日にプレゼントくれるんだぞ。お前も見習え」
 いつも使ってるジッポ、タカハシから貰ったやつなんだよと言いながら胸ポケットを抑えて、あ、と思った。落としたんだった。さっき気づいたところなのに。疲れてる。
 
「イトウさん? 何で止まってるんですか」
「…………無い」
 タカハシの妹がハァ!? と大声を上げる。キンキン声が耳に痛かったので思わず耳を塞いだ。
「いや、違うんだよ。さっき持ってたんだって。落としただけで」
「はー! 信じられない! 人から貰った物失くす!? 普通!」
 どうどう、とササキが宥めるが収まらない。どうせそのへんに落ちてるから! と怒鳴られて仕方なく探すことになった。回収するはずの奴は生きてるし、ソイツに怒鳴られるし、ああもう、今日は何しにここに来たんだっけ。
 
 ***
 
「あった! イトウさん! これですか!?」
 頭に蜘蛛の巣をつけたササキが茂みから飛び出す。ササキの手に握られたそれは--鮮やかな黄緑色のクリアボディーが眩しい--どう見ても百円ライター。
 
「ジッポつってんだろ! つーか上司に百円ライタープレゼントする部下がいると思ってんのか! でもそれ寄越せ!!」
 投げられたライターを受け取ってナイスピッチング! と叫んだ。そそくさとタバコを取り出し火を点ける。そうは言ったものの、ササキなら普通に百円ライターくらいプレゼントにしてきそうだ。
 
 視線を感じる。
「……何だよ」
 タカハシの妹がこちらを見ていたので、聞く。それから煙を吐き出す。
「いやあ。お兄ちゃんがそれプレゼントしたのも何かわかるなって思って」
 なんだそれ、と言おうとしたらさっきとは別の茂みから出てきたササキに言葉を遮られる。
 
「イトウさん煙草似合いますもんねえ」
 頭についてる蜘蛛の巣の量が増えているササキがはいこれ、と俺の手のひらに黒い革巻きのジッポを置いた。泥が付いていたので、指先で拭い取る。咥えていた煙草を携帯灰皿に突っ込んで、箱から新しく一本揺すり出してジッポで火を点ける。吐き出した白い煙が空中に消えていくのを見届けた。
 
 ジッポも見つけたことだし、さっきのミニバンの所に戻ることにしたが、「滑らないように気を付けてくださいね」と肩を震わせながら言うササキがいい加減に鬱陶しかった。
 戻ると車が増えていた。管理課の車が1台、警察車両が2台。出発してから軽く2時間は経過していたのでまあ当たり前だろうか。例の夫妻の遺体もタカハシの妹も警察に引き渡す。生きてる人間は管轄外なので。パトカーの後部座席の窓が開く。
 
「……それ、大事に使ってくださいよ」
 それと絶対二度と失くさないでください。と念を押される。
「あれは事故だって。事故」
 くすくす笑って、少しだけ眉を下げて言う。
「またお墓とか行ってあげてください。喜ぶと思います」
「……気が向いたら行く」
 
 
 車に乗り込み管理課に電話して一通り報告したら、次の回収先を言い渡された。今度はちゃんと確認は取れているしちゃんと死んでいるとのこと。車を走らせ、次の現場に向かう。
 
「イトウさん」
「ん」
「タカハシさんってどんな人だったんですか?」
「あー、そうだな。頭は良くなかったけど仕事はちゃんとやるし。真面目な奴だった」
 真面目過ぎるところもあったかもな、と付け足す。と対してササキの返事は「へぇ」だけで、自分で聞いといた癖にそれは素っ気なさ過ぎるんじゃないかと思ったが、変に話を膨らませられるよりはマシだった。
 
「まあ、死人には興味無いからなあ」