05


 蛇口を捻ればキュッと甲高い音が鳴って勢い良く水が流れ出す。跳ね返った水が服を濡らすので、蛇口をやや戻して水量を調節した。水量が程良くなったのを確認してから、ハンドソープを手に取り泡立てる。隣で同じように手を洗っているササキが「節水しましょうよ」と声を掛けてきたけれど無視。蛇口に付いた泡を洗い流すのが面倒だし、ここの水道代払うの俺じゃないし。まあここが自分の家ならそうしていただろうけど。
 
 泡をきれいに洗い流して、両手を振って軽く水気を飛ばす。水気を拭き取る前にまだ水に濡れたままの両手を鼻に近付けて、息を吸い込んだ。ハンドソープの柑橘系の香り。それから、その奥にちらりと香っているのは。さっきの現場で嫌というほど嗅いだ、生臭くて噎せ返るような鉄のような――血の匂い。
 念には念を入れて爪の間まで洗ったし、そもそも手袋を着けていた。それも二重に。だから手に血の匂いが付いているはずなんてないのだけれど。じゃあこれは気のせいだろうか。それとも鼻腔の奥に匂いが染み付いてしまったのか。
 馬鹿らしい、とゆるゆる頭を振って思考を断ち切ったものの、やはり何だか気持ちが悪かったので締めた蛇口を再び開き、今度は水だけで軽く洗い流した。
 
 
 
「そろそろお昼にしましょうか」
 ポケットから取り出した携帯電話で時間を確認しながらササキが言う。画面を横から覗き込むとデジタル表示の時計は12時を示していた。タオルで水気を拭き取りながら、そうするかぁと賛同する。
 
「どこ行きます?」
 ポケットに携帯電話を仕舞って、代わりに車の鍵を取り出した。ササキの手の中でカチャリと鍵が音を立てる。
「好きなとこ行けば。どうせ俺食わねえし」
 食わないというか食えないというか。さっきの血の匂いをうっすら思い出しながら返事をする。ササキが呆れた表情をしながら「また昼ご飯抜く気ですか?」と同じく呆れた声色で言った。昨日もちょうど同じくらいの時間に同じような物を回収した。例に漏れず昼飯は食べなかった――ではなく食べられなかった。
 
 
「痩せますよ」
「一食抜いたぐらいじゃ痩せねーよ」
 夜は食ってるし、と付け足す。
「……ま、イトウさんが痩せようが衰弱しようが知ったこっちゃないんですけどね」
 それはそれでどうなんだ。まあ結局のところ、コイツが興味あるのは自分の彼女のことだけだろうし。
 
「つーかそうは言うけど、これでもマシになった方なんだぞ」
 そう言うと、眉根を寄せたササキがええ? と怪訝な声を上げた。
「マシになったって……マシになるって言葉の意味知ってますかイトウさん」
「失礼な奴だなお前」
「冗談ですよ」
 冗談に聞こえねえよと短い溜め息を吐いて睨み付けたが、全く悪びれた様子も無くあははと笑っている。
 
「最初は全然何も食えなくてさあ。……あー、翌日まで水も飲めなかったかな」
 何かを食べようとすると、嫌悪感というか不快感というか。とにかくそういうものでいっぱいになるのだ。初めこそ身体が受け付けなかったものの、無理にでも食べた方がいいと思って取り敢えず何かを口にする。で、吐く。そういうことを繰り返しているうちに、少しばかり時間を空ければ普通に食事を摂ることはできるようになった。それでもやっぱり軽めの食事に限るられるが。果たして無理やり食事を摂ることに身体が慣れたのか、環境に精神が慣れたのか。どちらかは分からないけれど。
 
 
 へえ、と呆れと関心が入り混じった声音。
「そんなんでよく、今日までやってこられましたね」
「うん……ほんとにな……なんでだろうな……」
 若かったとは言え、思い返してみればかなり無茶なこと。遠い目をしながら自嘲気味に笑みをこぼせばしっかりしてくださいよ、と呆れた声。今日だけで何回呆れられているんだろうか。
 
「……つーかお前が特殊すぎるのもあるんだよ。最初からそんなにガッツリ食えるやついねえよ、普通」
 血塗れの遺体を片付けて、ケロリとした顔で日替わり定食のメインである回鍋肉を口に運びながら、今日と同じように「痩せますよ」とこちらに声を掛けるササキを思い出す。顔を合わせてまだ数日。ヤバイ奴が来たんじゃないかと肝を冷やしながら熱いお茶を啜ったが、やはり予想に違わずヤバかった。
 
「そうなんですか? ……まあそんなことより、」
「人の苦労をそんなこと呼ばわりか」
「苦労話ばかりする人って嫌われますよ」
 さらりと言い放つ。
「そんなことよりもですね、改善されるんじゃないですか」
「何が」
「何がってその、……体質って言えばいいんですかね。水分すら摂れないところから晩ご飯が食べられるまでになったんでしょう」
 じゃあ次は昼ご飯が食べられるところまで克服できるはずですよ、と相変わらずさらりと言い放った。
「……どうだろうな」
 言いながら、頬をかく。不意にちらりと血の匂いが鼻をかすめた。果たしてそんな日は訪れるんだろうか。タバコに火を点けて、血の匂いに上書きするように深く息を吸い込んだ。
 
 
 
「取り敢えず今日からでもチャレンジしてみますか? まずは少しずつ」
「ちなみに何食うつもりだったんだよ」
「ローストビーフ丼」
「…………いや、いい、今日は遠慮しとく……」