幽霊トンネルにて
ガタガタ車が揺れている。べたべた何かを叩きつけるような音がする。ガタガタとべたべたの間に、隣からは小さく囁くような声が聞こえる。
こんな時に一体何を言っているのやら。まさか恐怖に喘いで助けを求めているなんてことはないだろうか。なんとか聞き取れまいかと耳を澄ます。
「--……五、……六、……七、……八……」
数を、いや、秒数を数えている。どれだけ冷静なんだ、この人は。
その間もべたべたは鳴り止まない。叩きつける力は弱くないけれど、このまま叩かれ続ければガラスを割られるんじゃないだろうか。使われなくなった長い長い古トンネルのおおよそど真ん中。照明設備の類いは一切無い。真っ暗闇の中、無意識に悪い想像ばかりしてしまう。呼吸が乱れる。ハンドルを握る手がじんわりと汗ばんできた。
カウントが四十三まで進んだ頃、やっと音は止み、車内には静寂が戻った。
「…………終わった?」
恐る恐る呟く。思いの外弱々しい声が出た。
「そうみたいですね」と落ち着き払っているのは助手席に座る四ノ宮さん。持っていたペンライトで周りをぐるりと照らしながら、時折ふんふんと頷いている。ペンライトが消える。唯一の明かりを失って、車内は再び暗闇に包まれた。
「じゃあ帰りましょう。エンジン掛けて。車内灯も点けてください」
「うぎゃっ」
言われるがままに明かりをつけて、思わず情けない声を上げてしまった。
フロントガラスいっぱいに手、手、手。四十三秒もの間、べたべたと触られ続けたフロントガラスは真っ黒な手形だらけだ。反射的にワイパーを動かすと、そこだけ扇状にくり抜かれた。
「壮観ですね」四ノ宮さんはどうしてこうも冷静でいられるのだろうか。「ついでにこれ、見てもらえますか」と言いながら、助手席側の窓がペンライトに照らされる。
こちらもフロントガラスと同様に手形だらけだ。改めて手形を観察すると、さほど大きくはないことがわかる。自分の手よりは一回り小さくて、女性か小柄な男性ならこの程度の大きさだろうか。散らばり方には規則性は無いように見える。
四ノ宮さんが見ろと言ったから何かはあるに違いない。じっと目を凝らす。
「--あ」
ようやく気付いた。いや、気付いてしまったと言うか、それとも気付かされたと言うべきか。ペンライトに照らされた無数の手形。その中心に、ひとつだけ色濃く見えるものがある。
「……これだけ、内側だ」
「ぴんぽん」間の抜けた擬音の後、正解です、と頭を揺らした。
「ぅ、つまり、内側に入られてるってことですか」
「半分正解で、半分外れ……ですね」
「……どういうことですか。それって」
「そのうち分かりますよ。たぶん」
たぶんかよ。四ノ宮さんがペンライトを持っていない方の手でつつつとガラスをなぞる。ガラスの内側に付けられた手の痕の、親指の付け根と人差し指の付け根のちょうど真ん中から始まって、生命線と平行に指は滑る。あっという間に、手の痕は上下真っ二つに分断された。
「触っていいんですか」
人差し指がこちらに向けられる。指先は真っ黒に煤けている。
「特に害はありません」ふうっと吹き飛ばす。「ただの煤みたいなものですよ」
「……その、煤を付けてくる正体が何なのかとかは調べないんですか?」
「調べる時は調べます。ただ、うちの管轄じゃないので」
「へえ……」
「あっちの仕事は割とハードですけど、その分お給料は弾んでもらえますよ。……どうですか、よければそちらにお話回しておきますけど」
「や、大丈夫です。結構です。今の環境で十二分に満足してます」
少しばかり強調しながらそう言えば、残念に思っているのか、そもそも興味が無いのか、何を考えているんだか分からない表情をしながら四ノ宮さんは「ああそうですか」と頷いた。
永遠に続くんじゃないかと思えたトンネルにもようやく終わりが見えてきた。出口から太陽の明かりが半円状に白く輝いている。
「さ、早く帰って報告書まとめちゃいましょう。三ツ谷さんは現場に来るのは初めてでしたっけ?」
「そうです」
「じゃあ今回は私がまとめますね。数えるのだけ手伝って貰えますか」
「数える? 何をですか」
「手形を」
「ああ、手形を。……手形を!?」
当たり前じゃないですか、と狐につままれたような顔の四ノ宮さん。
「数えますよ。数えて、前回と比べて、特に差異が無ければ現状のままで問題ありませんで終わり。楽ですね」
「数えるんですか……ほんとに……この量を……」
「他に特徴が無いので、個数とか秒数とか、そういうものを数値的に記録するしか手が無いんです」
「はあ……」
「面倒臭いけどこれが大切なんですよ。こうやって定期的に訪れていればは彼等大人しいままでいてくれる。それに、記録して分析することで危険が及ぶ前に把握できる」
大変ですけど、我慢しましょう。とまるで子供に言うみたいに宥められてしまった。
理屈は分かっても身体が拒否してしまう。数えるって言ったって、一体どれだけあるんだ。トンネルの中にいた時はガラスばかり見ていたけれど、明るいところに出てみれば、手形はガラス以外のあちこちにも、所狭しと付けられている。「正確じゃなくても大丈夫ですよ。大体で」とフォローするように付け足されるけれど、それどころの話じゃない。
どちらにせよ嫌でも、少なくともここに居続けるよりはマシだろうか。ちらりとルームミラーを見るとトンネルはぽっかりと真っ黒な口を開けている。吸い込まれるような錯覚に陥って、慌ててアクセルを踏み込んで、古トンネルを後にした。