ムラサキカガミ


「ムラサキカガミってご存知ですか」
 調査に向かう道すがら。時刻は一時を少し回ったところ。天気は晴れ。だった、はず。
 会社を出る時には燦々と降り注いでいた太陽の光は、今では見る影もない。人の手が入った気配の無い木々に邪魔されて、昼間だというのに辺りは薄暗く、どことなく不気味な雰囲気が漂っている。おまけに路面状態は最悪で、自分の運転でも酔ってしまいそうだ。
 そんな状況を物ともせず、平然として助手席に座っている四ノ宮さんは不意に口を開いたのだった。
 
「二十歳まで覚えてると死ぬ……ってやつですよね」
「そうです」
 答えを返すと、短い相槌と共に四ノ宮さんは頷いた。
 ムラサキカガミという言葉はよく知っている。
 人から聞いて知ったのか、それとも本で読んで知ったんだったか。知った経緯は定かではないけれど、馬鹿らしいと強がりつつも本当に死んだらどうしようかと怯えていた記憶がある。忘れよう忘れようと努力して、ふとした拍子に思い出してはその度に絶望する苦悩の日々を送っていたものの、今現在、こうして無事に生を享受している。どうやらいつの間にか忘れたことすら忘れていたらしい。
 
「イルカ島とか赤い沼とか……。そんな風に呼ばれてるものもありますね」
 他にも種類があったとは。知っているのはムラサキカガミだけで、他はどれも初耳だと言うと「地域差でしょうかね」と半ば独り言ちる声。
「……信じてました? そういうの」
「いいえ。……と言ったら嘘になりますね」
「あ、やっぱり。信じますよね、なんだかんだ言って」
「ええ、ええ。有り得ない話だとは思いつつ、もしものことがあったら困りますから」
 よーく分かる。その気持ち。しみじみ呟く四ノ宮さんに同意すると同時に、意外だとも思った。やっぱりとは言ったものの、なんとなくこの人にとって怖い物なんてこの世に存在しないんじゃないかと勝手に思っていた。案外そうでもないらしい。
 
 
「……で、それがなんなんですか。もしかして次の調査対象とか……」
 もし調査するとしたらどうすればいいんだろう。
 未成年の死因の洗い出し? それとも浸透率の聞き取り調査? どれもこれも面倒臭そうだ。というかそもそも生死に関わるものを扱いたくない。
 あの頃は確かに怯えていたものの死にはしなかったし、身の回りでも誰かが死んだなんてこと聞いたこともない。危険性は無いと高を括っていたけれど、実態はそうでもないんだろうか。何かに追い掛けられるとか、何かに驚かされるとか、そういった類の怪異とは違って直接生死に関わるとなればかなり重要な案件のような気がする。
 
 いろいろ予想を立てたけれど、どれもこれも杞憂だったらしい。四ノ宮さんの右手がひらひら揺れて、否定を示す。
「いえ、違います。ふと思い出しただけの単なる世間話です」
「あ、なんだ」
 ほっと胸を撫で下ろす。
 それに、と四ノ宮さんは言葉を続ける。
「これに関しては放っておいても害が無いことが分かってますから、調査は必要ないんです」そこで一旦言葉を区切って、ため息をひとつ。「……まあ、報告書は出さなきゃいけないんですけれど……」
 調査しているという建前は必要で、隔年ごとに日付を修正した報告書を作成しているらしい。直すのは日付だけとは言えど、それはそれで面倒臭そうだ。
 それよりも、引っ掛かることがある。
 
「放っておいても問題ないって……分かるんですか? そんなこと」
「ああ、はい。これも結構歴史が長くって。長年の調査結果をもとに検証を重ねて問題無しと判断されまして…………ああ、釈然としてませんね」
 図星。黙って頷く。
 そんなに顔に出ていただろうか。それとなく手で口元を抑えた。
「……うーん、それじゃあ、もう一つお伺いしましょうか」
 少し悩んだ様子を見せた後、ひと呼吸おいてから四ノ宮さんはまた喋り始めた。
「水色の鏡。白い水晶。それから、ピンクの鏡。……これらが何かは、知ってますか?」
「知らないです」と首を横に振る。どれもこれも聞いたことが無い。
「それが何なんですか?」
「ムラサキカガミと似たようなものです」
「えっ。つまり、じゃあ、……えっ、死ぬんですか」
「死にません。むしろ逆ですよ」
 逆とは一体。
「これらは逆に、唱えると呪いが解除されるとか、覚えていると幸せになるといった類のものです。……で、どうにもこうにも、ムラサキカガミの覚えていると死ぬ--要するに不幸になる効果、と、これらの幸せになる効果が相殺しあった結果、それぞれ全く何の効果も無い状態になっているらしいんですよね。……詳細については管轄外なので、すみませんが分かり兼ねます」
「はあ」
「言霊ってあるじゃないですか」
「はあ」
「要するに、あれですね」
「へえ……」
 
 あれですねって。そんなノリでいいのか。肩の力が抜ける。
「……でも、放っておいた挙げ句に独り歩きして--って可能性はないんですか? それこそ『牛の首』みたいに」
「……三ツ谷さん、牛の首のこと根に持ってます?」
「いいえ」
「あ、そうですか……」
 カビ臭い資料を読まされ続けたことなんて、別にこれっぽっちも気にしてませんけど。それなら別にいいんですけれど。そう言いつつも今度は四ノ宮さんが釈然としない番だ。
 車は相変わらず悪路を走行し続けている。