マーメイド・イン・ザ・ワンルーム


01.

 浴槽で人魚を匿っている。
 台風一過のその日に、びたびたのワカメと一緒に干からびかけていた。人魚曰く、荒波に身を委ねて揺蕩っていたところ(人魚の間では最近そういう遊びが流行っているらしい)うっかりワカメに絡まって身動きが取れなくなってしまい、おまけに、割れたビンの破片で尾ビレを切って浜に打ち上げられたらしい。非常に鈍臭いやつである。
 鈍臭い人魚は乾いた睫毛をゆるゆる持ち上げてこちらを一瞥すると、「ちょっと助けてくださらない?」と言った。
 くださらない、だって。馴染みの無い言葉だったので答えあぐねて、黙って人魚の顔をまじまじと見つめ続けていると、人魚はもう一度、「ちょっと助けてくださらない?」と言った。
 後に浴槽の中で人魚が語ることには、「あんまりにも口をパクパクさせるもんだから、あの時のあなたの方がわたしよりも魚みたいだったわよ」だとか。

02.

「わたし、知らなかったのよ。本当よ? 知ってたらご厄介になろうだなんて、とうてい思わなかったもの。だって、水辺を離れてわざわざ土の上で暮らしている人たちよ? 陸地で暮らす代わりに大きなプールのひとつやふたつ、皆持ってるものと思うじゃない…………思わない? あら、そう。それは、ごめんなさい」と水中に棲む側の常識を振りかざしているのは、先日から浴槽の中で匿っている人魚である。
 人魚達は我々人間のことを、〝不便を買ってまで陸地で暮らしている奇特な生き物〟と思っていたらしい。人の暮らしを目の当たりにする度に「あらあらすごいわ」と感嘆の声をあげている。
 現在仮の住まいにしている浴槽も、初めこそは「こんなの水溜りじゃなぁい」とテッポウウオみたいな顔をして不満を垂れていたものの、今では鼻歌を歌うほどには馴染んでいる。住めば都というやつだ。
 きっと経験したことがないだろうから、善意で「お風呂沸かしてあげましょうか」と言ってみたら、「いやよ、出汁が出ちゃうでしょ」と返されたので、それもそうかぁと納得した。

03.

 我が家に帰ってきたら、浴室を覗き込むのが習慣になってしまった。それもこれも浴槽で匿っている人魚のせいである。
 だけれど今日は様子がおかしい。いつもならドアを開けたあと、間髪を入れずに「おかえりなさぁい」という声でちゃぷちゃぷと賑やかに出迎えてくれるのに。
 おかしいなと思って浴室に入り浴槽に近づいてみると、底のほうで沈んでいる光景が目に入った。「ぎゃっ」と叫んで慌てて水の中に手を突っ込んだら、その手は即座にひんやりした何かに掴まれたので、また、「ぎゃっ」と叫んだ。一応補足しておくと、何かとは言うまでもなく人魚のことだ。
 イタズラが成功した人魚はにまにましている。ひんやりした指を絡ませながら「うふふ、どう? 涼しくなった? あのね、今日はあんまり暑いから頭まで潜って涼んでいたの。よかったらあなたも一緒に沈まない?」と誘われたので「人間にはエラが無いから」と、丁重にお断りした。

04.

 怪我が治るまでの間、浴槽で匿う。
 人魚と交わした約束はそういう内容だったはず。ところが、割れたビンの破片で切ったらしい尾ビレのキズとっくの昔にきれいさっぱり治っているし、そのことについてもお互いすっかり気付いていた。
 とはいえ「早く出ていけ」なんてことは言い出しにくい。それに、浴槽を占拠されていても不便は感じていなかったので、まあ別にいいんじゃないかなぁとさえ思っていた。ただし当の人魚は約束を破ったという点が気になるのか、居心地悪そうにソワソワしていることが増えた。
「あのね、わたし、ちゃんと帰るから。絶対よ? 嘘はつかないわ。だからあの……もう少しだけ待っててもらってもいいかしら?」ある日の晩に人魚は意を決したようにそう言った。その言い方があんまりにも学生時代の忘れっぽい友人の、貸したCDを毎日忘れた時の言い訳によく似ていたので思わず声を上げて笑ってしまった。人魚も笑った。
 だから人魚はもう少しだけ、我が家の浴槽にいる。

05.

 サイフを忘れたことに気付いて慌てて部屋に戻ると、人魚は浴室の床でビチビチ跳ねていた。こちらに気付いた人魚は「うひゃあっ」と叫びながら浴槽に飛びこんで、うみぼうずみたいに頭を出しながら「何でもう帰ってきたのよぉ」と恨めしそうに呟いた。
 どうどう宥めて奇行の理由を聞いてみる。しどろもどろの話は要するに、長い浴槽生活で泳ぎを忘れて、海に帰っても上手に泳げないんじゃないかと心配になったらしい。あのビチビチはリハビリだったのだ。
「うう、もうダメよ。わたし、泳ぎなヘタな人魚だっていじめられて、波に流されて、最後にはきっとクジラのおなかに収まっちゃうのよ」と、めそめそ泣き始めてしまった。こんなに弱った人魚を見るのは初めてだったので「人間だって何年経っても身体が覚えていて自転車に乗れるんだから、ずっと泳いできた人魚が泳ぎを忘れるわけないよ」と慌てて慰めた。

06.

 丑三つ時の渚には人っ子一人いなくて、人魚をこっそり連れ出すにはぴったりだった。
 自転車の荷台から降りた人魚はカモフラージュの巻きスカートを剥ぎ取ると、極めて丁寧にそれを畳んだ。器用に身体をくねらせて波打ち際に移動する。人魚は「ねえ」と言って振り向いた。ざざん、と黒い波がウロコを濡らしている。
「またこうして、時々会って、わたしとお喋りしてくださらない?」
 くださらない、だって。かつては聞き慣れなかったその言い回しも、長らくの共同生活ですっかり耳に馴染んでしまった。だから即座に「もちろん」と答えることができたし、人魚もまた、愕然と口をパクパクし続けるなんてことはなくて、にまにま笑いながら「それじゃあ、また」と言い残して、ひときわ大きく押し寄せた波と一緒に海に身体を消した。
 少ししてから人魚は水面高く飛び上がった。暫くのブランクなんてものともせず、何度もくるくると宙返りをしてみせた。しばらくの間一緒に過ごしていたけれど、こうして泳いでいる姿を見るのはこれが初めてだ。
 月の光が反射して、濡れたウロコや舞い上がった水滴は星のように瞬いている。

07.

 風情がないのよねぇ、と呟くのは先日まで浴槽で匿っていた人魚だ。
 別れた翌日に日課である散歩をしていたら沖の方でよく見た顔と目が合ってしまって、そしてぶすっとした顔で開口一番、冒頭のようなことを言われてしまった。ただし「それはこっちのセリフなんだけど」とでも言おうものならさらなる不機嫌を招くのは間違いないので、機嫌の悪い人魚に突っつかれている哀れなシオマネキを黙って眺める。
「こういう感動の再会って、しばらく間を空けてからするものじゃないのかしら」
「だってここ、前から散歩コースだったし」
「わたしだって、このあたりに住んでるんだもの」
 じゃあ仕方ない。そう呟くと人魚もそうね、仕方ないわよね、と呟いた。
「それじゃあ約束どおり、またわたしとおしゃべりしてくださる? 昨日までもいっぱいおしゃべりしたけどまだまだ話足りないの。わたしって、おしゃべりなのよ。ご存知だった?」
 人魚の問いかけに「知ってるよ」と答えると、彼女はぱっと笑ってから嬉しそうに尾びれをびちびち振って、それを見た自分は犬みたいだなぁと思うのだった。