千代に御千代に


 身分を騙った男がひとり、山道にぽつんと立っている。
 この男は民俗学者を偽って、全国各地のあちこちを転々としている。というのも、男は本当は学者でも何でもない無職の身であって、五年前にはコンビニエンスストアーなどでアルバイトとして働いていたこともある。ところが、煙草の銘柄を番号で言わない客が嫌で、たったの三日で辞めてしまった。
 三日でアルバイトを辞めた男ではあるが、偽の民俗学者業はかれこれ四年は続いている。アルバイトを辞めてから半年と少し、部屋でただただぼうっと天井の染みを眺めるのにも飽きてから始めたことなので、正確には四年と六ヶ月だ。
 四年と六ヶ月の間、男は全国津々浦々、各地に眠る怪異や妖怪話の聞き取り調査を行ってきた。三日でアルバイトを辞めた身とはいえ、その熱心さといったらなかなか目を見張るものがあり、集まった怪異話も数多い。見る者が見れば垂涎ものであろうこと間違いなし。そういった地道な努力の賜物で、この数年で民俗学者業はすっかり板についたのである。(偽物ではあるが)
 
 そういう身分を騙った男がひとり、山道にぽつんと立っていた。
 男はつい先程までも、民俗学者業に勤しんでいた。男が下ってきた道の遥か上には、廃れた集落がひとつある。かつては栄えていたのだが、見る影もなくすっかり廃れてしまった。今では数世帯が残るのみである。
 集落に残る老人達は、部外者である男を歓迎し、様々な話を聞かせてくれた。ついでにお茶に饅頭まで御馳走になる始末。集落に続く道は整備されておらず、客が少ないのだ。
 そんなお接待を受け、男は浮かれた心地で山を降りていた。だったのだが、とあることが原因で山道でぽつんと立ち尽くし、ただひたすらに途方に暮れている羽目になったのである。
 
 その原因とは一体何か?
 十数分前、男の携帯電話にある一本の電話が入った。見慣れぬ番号が携帯電話の液晶画面に表示され、男は珍しいと思った。男の電話番号を知る人間は少ない。また、知っていたところで電話を掛けてくることも滅多に無い。知らない番号からなら尚更である。間違い電話だろうか、男はそう考えた。男は少しの間、無機質な着信音を聞きながら液晶画面を眺めていた。自然に切れるのを待っていたのだ。だがしかし、やがて、自分はこの電話に出なければいけないのではないか? と、そんな気持ちになった。
 疑問に疑問を持つこともなく、男は液晶画面に指を滑らせ、携帯電話を耳に当てた。どなたですか、と言う間も無く電話口の相手は矢継ぎ早に話し始めた。
 
 電話の内容を要約すると、次のようなものである。
 電話の相手は、男が先日訪れた、こことはまた別の集落に住む老人である。その集落も似たような寂れ具合で、やはり同じように余所者の男を歓迎してくれた。そこに、男はうっかり帽子を忘れてしまう。山の上にある集落だ。もう一度訪れるのも難しい。そう高価でもない帽子なので男は手放すつもりでいたが、老人は親切心で郵送してくれるという。名刺に書いてあった研究室宛てに送らせて頂きます。数日後にはなりますが、届くことと思います。それはどうも、ご丁寧にありがとうございます。男は極めて冷静に努めながらお礼を言った。
 
 電話を切り、男はさてどうしたものかと頭を抱えた。
 研究室になんて、届く筈が無い。そもそも、老人がこちらに電話を掛けてくること自体がおかしいのだ。
 前述の通り、男は偽物の民俗学者である。確かに話を聞いた人々には身分を明かして名刺を渡しているが、そこに書いてある情報は名前はおろか住所も電話番号も一切合切がデタラメだ。名刺なんて、どうせその場しのぎの信用を得るための道具に過ぎない。偽物が本当の個人情報を明かしたところで何になろうか。せいぜい「騙しやがって」と怒鳴り込みに来るのが関の山だろう。加えて、老人はおかしなことを言っていた。
「名刺の番号に掛けましたら、助手の方が出られたので、そこで先生の番号をお伺いしたんです」、と。

 繰り返しにはなるが、男はやはり偽物の民俗学者なのだ。研究室が無ければ、助手もいない。これは一体どういうことなのか。もしかすれば男はこの老人に騙されているのではないだろうか? 騙す側が騙されていたとは。こんな馬鹿なことがあって良いだろうか。はたまた助手を名乗る不審者の仕業か?
 男の頭の中で思考がぐるぐるぐるぐる回り、ぴたりと止まる。一つの仮定が男の脳裏をよぎった。
 
 --狐につままれた?
 
 いやまさか。
 男は自分の考えを否定すべく、ぶるぶる素早く首を振った。偽の民俗学者などして各地に伝わるまやかし話を集めてこそいるものの、男はその一切を信じてはいなかった。ひだる神という、人間に取り憑いて強い空腹感に襲わせる行逢神がいるが、血糖値の低下による症状がその正体とする説がある。また、限界状態において幻覚・幻聴に惑わされ、そのまま命を落とす遭難者も多いと聞く。得てして怪異というものは、空腹と疲労と教訓の塊なのである。現に今だって山歩きをして疲れている。
 そうだ。これは疲れによる幻覚なのである。なら早く家に帰ろうじゃあないか。男は固く誓って、落ち葉に覆われた山道を再び歩み始めた。ざくざくざく。踏み締める度に景気良く鳴る落ち葉たちは、まるで男を鼓舞しているようである。ざくざくざく。そうして男はそそくさと山を降りた。
 
 
 

 男の決意も虚しく、残念ながら、まさかはそのまさかであった。
 
 男はあの後すぐ家に帰り、飯を食い風呂に入り布団で寝た。いつもより早い時間に寝て、いつもより遅い時間に起きた。そして朝食(もはや昼食と言っても良い時間帯であったが)を食べると、携帯電話のナビに住所を打ち込み、家を出た。一体どこへ向かうのか? それは、自らがでっち上げた、名刺に書かれた偽物の住所に向かうためである。一度は幻覚と決め付けたが真相を突き止めなければ気が済まない。男はそういう性質の人間だった。四年と六ヶ月続けてきた民俗学者業である。装備も万端、山歩きは随分と慣れたものだ。
 ざくざくざくざく。男はナビの示すまま気丈に足を動かし、山頂を目指した。随分と霧が深いが問題ないだろう。道中は木々以外に何もなく、また、進む先にも何かがあるようには見えない。恐らく山頂までこの調子のはずだ。やはりあれは幻聴や幻覚の類いなのである。帽子のことは残念だったが、勉強代だと思えば良い。
 
 間もなく頂上といったところで、不意に霧が晴れた。これは丁度良い。何もないことを確認して、心晴れやかに帰ろうではないか。男は足を踏み出し、ドアノブを握り、ゆっくりと捻った。鍵は掛かっていなかった。金属特有の冷たさを手のひらに感じながらそのまま押し開けると、途端に埃っぽさが鼻をくすぐった。掃除を怠っているからである。助手には日頃からくどくどと叱られているが、男は掃除などをするよりも、外に出てあちらこちらを回ることの方が好きなのであった。薄っすらと埃を被った室内を見渡すと、雑然と積まれた資料に囲まれて、背の高い女がこちらを背にして立っている。ああ、助手が来ていたのか。男は直感的にそう思った。
 
 女は――助手は、男の存在に気が付いたのか、ゆっくりと振り向いた。すう、と目が細められ、たじろいだ男は一歩退いてしまう。ざくざくざく。どうして自分の助手に辟易することがあろうか。いいや、そもそも俺には助手なんていないんだ。ざくざくざくざく。妙な音だと男は下を向く。足元では、男に踏まれる度に落ち葉が鳴っている。ざくざくざく。落ち葉があるなんておかしい。ざくざく。ここは大学内の研究室の筈である。
 男が疑問に思ったその刹那、突如としてつむじ風が起きた。平積みされた資料の数々が舞い踊る。男は咄嗟にあっと声を上げ手を伸ばすが、次の瞬間、思わず息を呑んだ。みるみるうちに書類は葉っぱに変わるではないか。どういうことなのか。いや、ここには積み上げられた書類なんて最初から無かったはず。何故ならここは、さっきまで何も無い山中だったじゃないか。
 
 化かされていたのだ。そう思った時にはもう遅かった。 
 ひんやりしたドアノブも、積み上がった書類も、チラつく蛍光灯も、窓の向こうの夕日だって。全部まやかしである。何もかもはあっという間に落ち葉に変わって、つむじ風に乗って男の頬を叩く。
 
「おかえりなさい、センセ。随分遅かったですね」
 女の甘ったるい声が、嫌というほど耳に付く。
 一体全体これはどういうことなのか。一つだけ分かるのは、男には狐に出迎えられるような謂れは無いということである。
 舞い上がった落ち葉の向こうでは、豊かな毛並みの尻尾が嬉しそうに揺れている。