視界の端にアザラシがいる


 視界の端にアザラシがいる。
 三週間前からそこにいる。
 ぼんやり見ている分にはいいが、はっきりその姿を捉えようとすると忽ちに消えてしまう。だから、たぶん、アザラシはそこにいる。
 
 思い切って医者に行ってみた。ただし、頭がおかしいやつだと思われたくなかったので健康診断のついでに「あのう、最近、視界の隅に、何て言うんですかね……あの、アシカというか、アザラシと言いますか……」とぼそっと言ってみたのだ。今思えば、これはこれでやはり頭のおかしいやつである。これならまだはっきりと「三週間前から視界の端にアザラシが見えるんですが、私は何かの病気なのでしょうか?」と聞いて、「はい、そうですよ。大丈夫。しっかり治しましょうね」と言われる方が随分ましだった。
 ところが私の杞憂を余所に、白髪交じりの医者先生の返答は呆気ないものであった。
 
「ああ、いますよねぇ」
 
 どうやらアザラシは三週間前からあちこちにいるらしい。
 私だけが見える特別なアザラシというのは、残念ながら存在していなかったのだ。何だお前、私だけの特別じゃ無かったのか、とやはり視界の端でぼんやり浮かんでいるアザラシに悪態をつくと、アザラシは小さく「グゥ」と鳴いた。
 
 アザラシは視界の端にいて、だからといってどうということはない。アザラシはただそこにいて、時々上を見たり後ろを向いたりひっくり返ったりしている。気が散ると言えば散るのだけれど、もうすっかり私たちはアザラシの存在に慣れてしまった。
 アザラシが私たちの視界の端をジャックして、かれこれ半年が経つ。しかし、相変わらずその姿を捉えようとするとどこかに消えてしまうので、私たちがアザラシの姿をはっきり捉えられた試しはない。
 
 アザラシ圧に耐えかねて、先輩が会社を辞めてしまった。入社以来、私に特別良くしてくれた先輩だったため非常に悲しい。
「辞められてからどうするんですか?」
「旅行に行こうと思ってね。コイツのために」
 コイツとは。疑問に思って私は手元のコップから顔を上げた。先輩は誇らしげな顔をして自分の顔の横を指す。あ、そう。そっすか。折角のアザラシなのに、毎日見る景色がビル街から見える青空や満員電車の様相、ブラウザに領収書なんて可哀想だろうとのことだ。そりゃよろしいことで。折角のアザラシなのにって、何?
 
 先輩が南極に飛び立ってからかれこれ半年が経つ。
 アザラシが現れ始めてから一年である。
 
 先輩とはあれから何度か連絡を取っている。
 アザラシはもちろん、アホウドリやペンギンを見たという報告も逐一受けるので、私は羨ましくなって夜毎にペンギンの画像を検索しては悔しがっている。
「アザラシかと思って『おっ』って言ったらオットセイで恥かいたんだ」
「毎日アザラシ見てるんだから間違えないでくださいよ」
「見てないよ。見ようとしたら消えるんだから」
 それもそうか、と思っていると先輩は「でもなあ」と呟いた。
「どれだけ見て回っても、コイツと同じアザラシが見当たらないんだ」
 
 声の調子を落とした先輩に、私はあのですね、と前置きをしてから話し始めることにした。
「先輩の話を聞くに、どうにも先輩のアザラシはクラカケアザラシのようなんです」
 私はパソコンの画面に表示されている文字をそのまま読み上げる。先輩は時々「うん、うん」と相槌を打ちながら聞いている。
「主に魚類やイカ、オキアミなんかを食べていて――」
「いいもん食べてるなあ」
「黒地の毛皮に白い帯を回したような独特な文様が特徴、」
「そうそう」
「そしてクラカケアザラシがいるのはオホーツク海、ベーリング海、チュクチ海」
「うん」
「つまり、北の海なんです」
「うん。……うん?」
「先輩がいるのは、南の海です。残念ながら」
 先輩が息を呑む。先輩のアザラシも息を呑む。電話の遠く向こうで、氷の割れる音が鳴っている。私が暫く南極の環境音を楽しんだ後、先輩はぽつりと、真逆じゃん、と言った。ほとんど涙声だ。
「そうですよ」
「なんでもっと早く言ってくれなかったの……」
「だって、私も知ったのはついさっきで……」
 私も辛い。勘弁して欲しい。どうしたらいい? と先輩は涙混じりに私に尋ねた。
「取り敢えず帰国して、詳しいことはそれから考えましょうよ。アザラシは逃げませんよ……たぶん」
「そうする……」
 先輩の声はやはり疲れている。けれども先程よりかは少しマシになったように聞こえる。
「ところで先輩」
「何?」
「時間、大丈夫なんですか? 衛星電話って高いんじゃあ……」
「げっ」
 電話はそのままぶつんと切れてしまった。
 果たして先輩は大丈夫だろうか、と一瞬思ったけれどたぶん杞憂だろう。はっきり視認できないアザラシのために、仕事を辞めて南の果てまで行ってしまうような人である。ちょっとやそっとじゃ揺るがないだろう、と思う。
 
 それから程なくして先輩は帰国した。帰国までの間に気持ちは落ち着いたらしい。先輩は久しぶりの日本での食事に舌鼓を打ちながら、今後の展望を私に聞かせてくれた。暫くは国内で働いて、またお金が貯まったら次こそは北の海に向かうのだそうだ。
 
 
「私も南極とか行ってみようかなあ」
 その日の夜、ベットに横になってから私はアザラシに提案した。
「どう思う? 先輩みたいにバリバリ出世してお金貯めてからさ、」
 ところがアザラシは、私が先輩みたいに、と言ったところで「グゥー」と煮え切らないバイクのエンジン音のような音で鳴いた。何だこの野郎、私じゃ無理って言いたいのかよ、とアザラシの方を向き直ったら、やっぱりアザラシの姿は途端に消えてしまった。こんなやつの為に遠出するのは止めだ止め。
 
 北に行こうが南に行こうがどこに行こうが、アザラシはやはり視界の端にいる。