猫又と相成りましたので


 足元の方から「なぁん」という何とも可愛らしい声が聞こえたのでそちらに顔を向けると、右耳の黒く染まった猫が、二本足で器用に立ってこちらを見上げていた。ここいらで『ブチ』と呼ばれて可愛がられていた斑猫だ。首には年季の入った唐草模様の風呂敷を巻いていて、随分と古風な出で立ちである。
「あら。これはまた珍しい」
「お久しぶりです。姐さん」
 ガラス玉みたいな目をにゅうっと細める。左にだけ黒い靴下を履いたような前脚を揃えて、恭しくお辞儀をした。
「暫く顔を見せないもんだからどうしてるのかと思っていたけれど、元気そうじゃあないの」
「ええ、フミさんのお宅で養生しておりました。――そろそろ尻尾が別れそうな頃合いだったので」
「そうかそうか、アンタももうそんな歳になるのかい。……どおれ、尻尾を見せておくれよ」
「勿論ですとも」
 斑猫はひげ袋を持ち上げて、にゃっと後ろを振り向いた。白い尻から生えた真っ黒い尻尾は根本から二手に分かれていて、それをゆぅらりゆぅらり優雅に揺らす。
「これはまた綺麗に別れたもんだね」
 ほほう、と思わず感嘆の声が漏れた。斑猫は照れ臭そうに髭を撫でている。
「それでいったい、今日はどうしたんだい? 尻尾を見せるためだけに来た訳じゃあないだろう」
「はい、今日伺ったのは外でもありません。姐さんを人生の先輩と見込んで、ひとつご相談したいことがあるんです」
「なんだい、改まっちゃって」
 猫背も尻尾も髭までもをしゃんと伸ばして、斑猫は言う。
「――名前を決める相談に乗っては頂けないでしょうか?」

 ははあ、なるほど。
 長生きした猫の中には、尻尾が二つに別れ人語を解するようになるものがいる。これを猫又と呼ぶ。
 そして、猫が猫又と成った際には『猫又証明書』を提出しなければいけない。
 名前は何と言うか。毛皮は何色か。模様はどうであるか。尻尾が別れ終わったのはいつか。縄張りはどこからどこまでとしているか、などなど。そういうことをまとめて記入し、然るべき機関に提出することが義務付けられている。
 長生きした猫が猫又になることは知っていても、この『猫又証明書』の存在を知らない人間は大変多い。
 それもその筈だ。猫又というのは、二本足で、文字通り独り立ちできるようになった猫たちである。人間達の手を借りずとも、事務処理だって手ずからやれてしまうのだ。
 
「――つまりアンタは半分野良みたいなものだったから、人間たちに呼ばれていた名前が多くって、書面になんとするべきか決めかねてるっていう訳だね」
「さすがは姐さん。話が早い」
 斑猫は肉球のついた両手でぽむぽむぽむ、と軽く柏手を打った。
「どぉれ、ひとつ相談に乗ってあげようじゃないの。名前の候補を書いたものは持って来てるのかい?」
「はぁい、こちらに」
 斑猫は首に巻いていた風呂敷をしゅるりと解くと、中から紙を取り出した。
「ふむふむ、では見ていこうか。……ううん、よく聞く名前は面白くないから消してしまおう」
 端から順に目を通していくと、羅列した名前のうちの一つに目が止まった。
「んん……これは良くないね。センスが無さすぎる」と名前を指し示すと、斑猫もこくこく頷いて同意した。前脚の爪を一本にゅっとやって、紙をカリカリ引っ掻く。
「それは私も御免です。…………おはぎだなんて……」
「食べ物の名前を付けるだなんて、何を考えているんだろうねぇ。人間ってやつは」
「……私はもしかして、食べられてしまうんでしょうか……」
 斑猫はすっかり項垂れてしまった。しょぼくれた後ろ頭は丸くて黒い。おはぎに見えないこともないが、名付けられる身にもなって欲しいものだと思った。
「それは大丈夫だろうよ。私も長く生きてるけれど、食われちまったという猫は聞いたことが無いからね」
 そう助言すると、ならば安心です、と言って胸を撫で下ろした。

 私が名前を決める相談に乗ったのはこれが初めてではない。
名乗りに悩む猫又は案外多く、飼い主から付けられた今の名前が気に入らないから、新しい名前を一緒に考えて欲しいなどとその理由は様々だ。食べ物の名前で呼ばれている猫も数多くいるが、どれもこれも名付け由来のように食べられてしまうこともなく、元気にそこいらを闊歩している。
 斑猫が持ってきた名前候補にも食べ物の名前は多い。かつお。あんこ。あずき。おこげ……。食べ物の名前を消していくと候補の数は大分減った。
「おっ、これはどうだい? ハチってのは。末広がりで縁起も良いし、アンタの背中に八の字模様もある、し……」
 紙から顔を上げる。しかし斑猫は浮かない顔で、両髭をしおしおさせていた。二又の尻尾も力無く地面に垂れている。
「実はそれは……フクさんが以前に飼ってらした猫のお名前らしいんです」
「あら……。それはいけないね。襲名という手もあるけれど、アンタとしては複雑か」
 そうなんです、と斑猫は頷いた。
 一生に一度名乗り続ける名前である。襲名するよりも、他の名前の方が自分のものとしてしっくり来るだろう。
「……ところでねえ、アンタ、さっきから否定ばっかりしてるけれど、自分でこれ! と思った名前は無いのかい。ああ、ああ、全部採用したいなんて言うんじゃあないよ。寿限無じゃあるまいし」
 斑猫はじゅげむ、と言いながらビー玉みたいな目をぱちくりさせていたので、「本をお読み」と助言した。あらすじを言って聞かせてやろうと思うほどの優しさは持ち合わせていない。
「文字は読めるのかい?」
「いいえ。まだあまり……」
「そう、ならフクさんにでも習ってみると良いよ。あの人は昔教師をやってたからねぇ。……その風呂敷もどうせフクさんが貸してくれたんだろう? そんなら早速、返しに行くついでに相談してみるのはどうかしら」
「流石は姐さん! 何でもご存知なんですね」
「伊達に長生きしてないんだよ。読めるようになったらまたうちの本屋においで。名乗りの参考になるような本を仕入れておくからね。さ、暗くなってきたからそろそろお帰り」
 斑猫は「大変勉強になりました!」と声を張り上げると、暇乞いもそこそこに、ぺこりと頭を下げて駆け出した。そのまま、一度も振り返ることなく走り去っていく。

 姿が見えなくなったのを見計らって、私は「アヤちゃん。アヤちゃあん」と店の方に向かって声を掛けた。玄関の引き戸がカラカラ開いて、そこからアヤちゃんが顔を覗かせる。
「はぁい。ブンちゃん、どうかしたの?」
「本を仕入れといて貰えるかな。猫又向けの、名付けの参考になりそうなやつ」
「あら。じゃあまた成功したんだ?」
 アヤちゃんの問いに、にやっと笑って首肯した。するとアヤちゃんもにやっと笑って、鳥籠の入り口を開けて手を差し込むと、私のくちばしの付け根を撫でてくれた。

 アヤちゃんというのはここの本屋の女主人で、少し前までは看板娘という扱いだったけれど、彼女の祖父が引退してからは経営を一任されている。私はと言えば、アヤちゃんの祖父が今よりもっと若くて背筋もしゃんとしていた頃に貰われてきたオウムのオオバタンである。
 かつては文鳥を飼いたかったアヤちゃんと、拒否権も無くこの家に貰われてきたオウムの私の間で一悶着があったけれど、今ではこうして共に店をやっていける程には仲良しだ。アヤちゃんは仕入と販売、私は客寄せパンダならぬ客寄せオウムとして日々働いている。時折ああして猫又の悩み相談に乗ったり、新たなカモとして……いや、新規のお客様として迎え入れている。
 不意に目の前にリンゴが一切れ差し出された。目ん玉をまん丸くしていると、アヤちゃんが「特別手当だよ。よく働いてくれるから」と言った。
「あらま、随分と気前が良いじゃない」
 アヤちゃんはにひひっと笑う。そして私が入った鳥籠をカウンター横のスタンドに引っ掛けた。規則的な揺れが眠気を誘う。私はうつらうつらリンゴを啄みながら、次は見習い猫又向けの読み書き教室でも開こうかしらねぇ、と、考えるのであった。