方舟にて
時給二百円でこき使われている。
労働環境は悪いけれど、自棄になって応募した自分も悪い。上司はもっと悪い。仕事に関しての知識と理解と信念がこれっぽっちも無いので、質はさて置きスピードばかりを求められる。
そういう環境なので、いつ胃に穴が空いてもおかしくない。
すべての始まりは面接当日のこと。待ち合わせ場所で担当者――乃田さんと落ち合ったあと、職場まで車で移動する。十分ほど道なりに走った頃に、乃田さんは言う。
「仕事の内容なんだけど」
「あ、はい」
「方舟に乗せたいから、番の動物を集めてきて欲しいんだよね」
「はい…………はい?」
赤信号。停止線をやや踏み越えながら、乃田さんは事も無げにそう言った。
えっ。なにそれ。なんだそれ。
方舟? 冗談? 頭がアレな人? ドッキリ?
それとも隠語? 番の動物……密輸? …………犯罪?
頭の中がぐるぐる回る。乃田さんは淡々と話し始めた。
少し前に神様からお告げがあったこと。大洪水を起こして地球上の物を一掃すると決めたこと。『方舟』に動物の番を乗せて逃がすように頼まれたこと。
信号が青に変わって、車は再び発進する。
「顔色悪いね。あ、もしかして、乗り物弱い? 酔っちゃった?」
「いえ、別に…………」
そのまま少し走って、車はどこかの空き地に乗り入れた。空き地の奥には建設現場でよく見かけるようなプレハブ小屋がぽつんと建っていて、乃田さんはそこに車を横づける。
お父さんお母さん、ごめんなさい。僕はきっとこれからこのプレハブ小屋で密輸に携わるんです……。きっとエキゾチックアニマルたちの世話をさせられるに違いありません……。などと覚悟を決めつつ小屋の中に入る。
一歩足を踏み入れると外からは想像できないような空間が広がっていた。天井は三階建てはありそうなほど高くて、等間隔に付いた天窓が室内を明るく照らす。室内には所狭しと、動物たちを収容する設備が備え付けられていた。
なるほど、ここは確かに方舟だ。
乃田さんを振り返って「まじの話だったんですか」と聞くと、「まじだよ」と答えられる。乃田さんは後ろ手で玄関に鍵を掛けながら、
「今日から住み込みで、よろしくね」と、極めてにこやかに、最悪の内容を告げた。
そういう経緯を経て、日夜こき使われている。
ある日、方舟の海獣エリア(勝手に命名した)で見回りをしていると、乃田さんが様子を見にやってきた。
「うんうん。いい感じだね。見たところ、全種類揃っているようだし、そろそろ出発しても宜しいかい」
「まだ駄目です」
「なんで」
「スナメリがいませんもの」
乃田さんは如何にも面倒臭そうな顔をした後、「ええ~」とかなんとか言いながら辺りを見回し始めた。ポコポコポコ。ポンプが規則正しく水槽に空気を送っている。
ややあってから、乃田さんは「いるじゃん」と並んでいる水槽のうちの一つを指差した。水槽の中からは、つるっとした頭の生き物が、柔和な笑みをこちらに向けている。
「これはベルーガです」
「なにそれ」
知らないんかい。
悪態をつきたくなる気持ちをぐっと堪えて、乃田さんが手にしている『地球上全生態系リスト』の紙を引っ手繰った。(悪態をつくのは我慢できても、態度に出てしまったので意味が無い。)このリストの五十二枚目の、上から三番目にスナメリは載っている。
「これですよ」
乃田さんの目の前に該当のページを突き出すと、唇を尖らせたまま目を薄く細めて、スナメリの写真とベルーガを交互に見比べ始めた。五回くらいその行為を繰り返してから、乃田さんはゆっくり口を開く。
「……一緒じゃん」
「一緒じゃないです」
「一緒に見えるんだけどなぁー」
「大きさが違います」と言うと、「大きさ以外は一緒ってこと?」と聞き返された。ゲームの色違いとかじゃないんだから。
「……とにかく、後はスナメリだけなんですよ。場所の目星は付いてるので、あと一日だけでも待ってもらえませんか」
乃田さんは少し考える素振りを見せた後、何か企んでそうな顔をしながら、「いいよぉ」と言った。
* * *
次の日、嫌な予感は的中した。番のスナメリを捕まえて方舟に帰ってくると、方舟の中はすっかりもぬけの殻になっていた。乃田さんは先に行ってしまったのだ。
スナメリにエサを与えながら「このまま帰ってもいいかなぁ」などと相談していると「駄目だよ」と叱られてしまった。スナメリが喋ったのかと思ったけれど、声は後ろから聞こえてきた。振り返るとそこには見知らぬ顔の人が立っていて、小脇にはしょぼくれた顔の乃田さんを抱えている。
「どうして駄目なんでしょう」
「中止になったんだよ」
ふて腐れた声色で答えるのは、やや乱暴に床に降ろされた(落とされたと言ってもいいかもしれない)乃田さんだ。見知らぬ人が水槽の前にしゃがみ込みながら、説明を引き継いだ。
話を聞くに、つまりこういうことらしい。
大洪水ははるか昔に一度起きている。方舟もその時に作られて、やはり同じように動物の番を乗せたらしい。大洪水が起きて、地球上のあらゆるものが流された後、当時に乃田さんと同じ立場だった人が大洪水を二度と起こさないよう、神様に直談判して神様もそれを承諾。……したのだけれど、どういう訳だか二度目のお告げが乃田さんのところに届いてしまったらしい。慌てて止めに来たものの、時既に遅し。あらかた集め終わった後だったということだ。
「はあ、なるほど」
「だから、せっかく捕まえてもらったところ悪いけど、元いた場所に返してきてもらえるかな」
面倒臭いけれど、そういう事情なら仕方ない。
というよりも断れる気がしなかった。方舟にやって来る道中の乃田さんと同じく、有無を言わせぬ口振りだった。自分はつくづくこういう役回りだ。
「つまりあなたは神様ってことですか」
「そうだよ」
「ところで神様」
「なんでしょう」
「元の場所に返す作業分の給料はちゃんと支払われるんでしょうか。今のところ、あの人からはびた一文も貰っていないので……」
神様は乃田さんを一瞥した後、「そりゃもちろん」と言いながら、懐から出した電卓で金額を叩いて出してくれた。時給二百円から大躍進した金額が呈示されたので、みるみるうちにやる気が湧いてくるのが分かった。早速スナメリを海に帰してあげるべく立ち上がって、その前にすべきことを思い出した。
「乃田さぁん」
寝っ転がったままの乃田さんに声を掛けると、乃田さんは出来損ないの匍匐前進みたいな動きで水槽の前までやって来た。
「なに、どうしたの」
「見てください。これがスナメリです」
と言って紹介していると、スナメリがタイミングよくバブルリングを作って見せてくれたので、乃田さんと神様は声を揃えて「おお〜」と言った。