天高く首伸びて夏


 叔父さんから譲り受けたテキサス生まれのマサイキリンは恐ろしいほどの大食漢で、「喜んで食べるから」という理由であまり深く考えずに来る日も来る日もニセアカシアの葉だけを与えていた影響か、首ばかりがぐんぐんと伸びてしまった。
 首に反して足は随分と短い。そのみっともなさと言ったら、ミニチュアダックスフンドを飼っている近所の小学生にすら馬鹿にされる始末。
 どうにも彼らの散歩コースの道中に我が家は位置しているらしい。うちの前を通り掛かる度に、生け垣の間から顔を出して「やーい、この短足!」などと言って、大きな声でキリンをからかうのが彼らの日課になっている。
 しかし、いくら馬鹿にされようが当の本人には暖簾に腕押しのようだ。
 悪口雑言を叫ぶやいなや、子供と小型犬は撃ち出された弾丸のように駆け出す。今日こそはその首根っこを掴んでやろうと飼い主は生け垣に頭を突っ込む。その拍子に、生け垣に立て掛けてあった脚立と竹ボウキが大きな音を出して倒れる。騒々しいことこの上ない。
 ところがキリンはあれやこれやを気にする素振りは全く見せず、妙な形で空を流れる雲や、鼻先で翼を休める小鳥なんかに興味を向けている。
 叔父さんから譲り受けたテキサス生まれのマサイキリンは、恐ろしいほどの大食漢で、加えて、恐ろしいまでに自由気ままである。

 生意気な顔をした一人と一匹の逃げ足は速い。運動不足の会社員が追いつけるはずもなくて、四辻に消えていった背中を見送ってからトボトボ帰路につく。
 我が家に帰るとキリンは相変わらず真っ直ぐ立ち続けていて、よくよく見ると頬をぷっくりと膨らませていた。朝食を反芻していたところらしい。飼い主の苦労を知ってか知らずか呑気なやつである。
 首の根元がコブのように少しだけ膨らんで、それがゆっくり上へと上っていく。一度飲み込んだ物を胃から口に戻して噛み直すのだ。長い長い首は反芻の観察するのにうってつけで、食物が上下する様子を眺めているのはなかなか結構面白い。長い睫毛の奥にある目でどこか遠くを見つめながら、ぷっくり膨らんだ頬の中では自分が今朝与えた朝食が再び咀嚼されている。

 ところで首は依然として伸び続けている。
 あれこれ手を尽くしてみたものの、今更何をしようが時既に遅し。
 これまで与え続けていたニセアカシアを辞めて、ニンジンを与えてみた。喜んで食べた。それじゃあキャベツはどうだと与えてみたら、これも喜んで食べた。野菜の美味しさに味を占めたようで、家庭菜園のブロッコリーを齧り尽くされる被害に遭った。それから、動物園に相談に伺った折にご厚意で貰った、ヘイキューブという乾草を圧縮して成形した餌を与えたりもしてみた。
 ところがそんな努力も虚しく、首だけがどんどんと伸びていく。むしろ、あらゆる物をたくさん食べたことでますます成長著しい。今朝方見た時には成層圏を超えるか超えないか、といった有様だった。
「お前、そんなに伸びても大丈夫なの……?」という心配の言葉も、理解しているのかいないのか。更に長くなった首で器用に胃から口に食べ物を運んで反芻しているので、案外問題ないのかもしれない。

 とはいえ万が一うちのダイスケ(注:キリンの名前。名付け親は叔父さん)が隣県のお宅の庭木なんかを食べては大変だ。ご近所、いや、ご隣県迷惑だし、変な物を食べてお腹を壊してもいけない。
 そう思って叔父さんに電話して、昔なじみらしい獣医師を紹介してもらったのだ。
 予約した診療の日、柔和な顔をした獣医師は我が家の門の前にタクシーを停めて、ニコニコしながら降りてきた。人の良さそうな笑みを浮かべたまま、こちらの顔を見たりダイスケを見上げたりと忙しない。
「や、うふふ、ごめんなさいね。私も昔はこの辺に住んでたんだけど、見覚えのない塔があるから、しばらく見ないうちに新しく何か建ったかと思っちゃって。そしたら、うふふ、近づいていくにつれてキリンの模様が見えてきたもんだから…………」
 くっくっく、と先生は背中を丸めて震えている。ダイスケは器用に首を折り曲げて、物珍しそうに背中を見つめている。――と思っていたらおもむろにその髪の毛を食み始めた。
「あっコラ! お前コラ!」
「いいんですよ、いいんです。私が珍しいんでしょう。……で、この子のお名前は?」
「ダイスケです」
 そう答えると、「名は体を表す……」と呟いた後に、また背中を丸めてくっくっくと笑い始めた。笑い上戸らしく、笑いが収まるまでは少しの時間を要した。

 * * *

「……で、これが一日に与えてる餌の量です」
「なるほどなるほど」
「一応動物園に相談しに行ったこともあるので、大丈夫だとは思ってたんですけど……」
「うんうん、問題ないと思います」
「じゃあ何なんでしょうか……」
「そうですねぇ……」
 先生は神妙な顔で腕を組みダイスケの上唇をひと撫でする。
そして、たっぷり沈黙した後に口を開いた。
「成長期ですね」
「は」
「成長期」
「せいちょ、……え?」
「はい、成長期。…………あっ、ええっとねぇ……こういう漢字を書くんだけれど……」
「……あ、いや、すみません、分かります。分かってます。分かってはいるんですけど、ちょっと戸惑っただけで……」
 呆けていたら理解出来ていないと思われたらしい。ご丁寧にもポケットから手帳とペンを取り出して、字に書いて説明してくれようとしている。慌てて止めると「あら、そうなの」と残念そうな顔をした。なんで?
「診た限り問題なく健康に育ってますよ。ちょっと平均よりは大きい子みたいですけど」
「ちょっと?」
「足の方もそのうち伸びて、バランスよくなりますよ。ねぇダイスケくん」

 これ以上伸びるんですか、と聞こうとしたら突如鳴り始めた着信音に遮られた。ポケットから携帯電話を取り出す。液晶画面には職場の同僚の名前が表示されていた。
「ちょっと電話が……」
「どうぞどうぞ」
 促されるまま、先生とダイスケから少し離れて電話を取る。
「はい」
「あ、お休みのところすみません。……今ってお時間大丈夫ですか?」
 少しだけなら、と答えて、「何かありましたか?」と聞くと「うーん、まあ、そんな感じです」と要領を得ない返事が返ってきた。
「あの、仕事のことではないんですけど、ちょっと相談したいことが……その……ありまして……」
 随分と歯切れが悪い。見て欲しい物があると言うので、ビデオ通話に切り替える。
「うわっ」
 驚いて思わず声が出た。液晶画面いっぱいに犬が――ミニチュアダックスフンドの顔が大写しになっている。これはまた随分と因縁のある犬種だが、近所に住むアレよりは明るい色の毛並みで、おまけにあちらは心底生意気そうな顔をしているけれど、こちらはくりっとした目が可愛らしい。
「ダメでしょハナちゃん」
そう叱られながら、ハナちゃんと呼ばれた犬はテーブルから降ろされて膝に乗せられる。その様子を見ていると、相談したい内容とやらはすぐにぴんと来た。
「……あ、分かっちゃいました?」
視線に気づいた同僚が苦笑いをする。
「ええ、まあ……」
 膝の上で抱えられているハナちゃんは、短い前足をジタバタと動かしている。きっと尻尾や後ろ足も同じように忙しなく動いているのだろう。しかしこちらからその様子を見ることはできない。ハナちゃんの上半身は椅子に座った同僚の膝の上にあるけれど、下半身は床に位置している。つまり、ハナちゃんは、極端に胴が長いのだ。
「気のせいかなぁと思ってたんですけど、流石にここまで伸びてるとそういう訳にもいかなくて……」
「ああ……」
 ちらりと後ろを振り向く。ダイスケは相変わらず長い首の中で食べ物を昇降させて、食事を反芻している。「何なんでしょう、これ……」という悲痛な声を宥めながら、画面に表示されているカメラのマークに触れて、こちらもビデオ通話に切り替えた。
ダイスケの姿はあちらに見えているだろうか。
「…………それ、たぶん、成長期です」