新宿の猫が逃げ出した。
大きな体の猫にあの液晶画面が手狭すぎたのは誰の目にも明らかだった。いくら超大型街頭ビジョンとは言えど、大きいか小さいかなんてのは人間の尺度であるからして、猫には一切関係がない。
実体の無い猫の鳴き声が連日連夜、あっちでにゃおにゃおこっちでにゃおにゃお聞こえてくる。
「早く帰ってくるように」との祈りを込めて、もぬけの殻の街頭ビジョンにマタタビやおやつが供えられ始めるのも時間の問題だった。
新宿の猫を見張っている。
そういう仕事に就いている。
前任の担当者はどこか僻地に飛ばされたらしい。真偽の程は定かではないが、職務放棄が原因のようだ。事務所の至るところに私物と思しき猫グッズが溢れていて、無類の猫好きだった様相が見て取れる。着任初日はそれらを片づけることから始まった。
ところで社内では犬好きを公言する人間が増えたらしい。猫派ではこの仕事に就けないから、と風の噂で聞いた。
「犬に失礼だと思わないのかねえ。お前もそう思うよなあ?」
「うなぁん」
新宿の猫はうちの子に違いない。あの特徴的な模様。あの生意気そうな目付き。あの怠慢そうな尻尾の振り方。「なぁお」このふてぶてしい鳴き声。
新宿の猫はどこからどう見ても、私が実家で飼っていたぶちおに違いない。私の上京に合わせて着いてきたに違いない。そしてぶちおは気ままなやつだったから、あの街頭ビジョンを気に入ってしまったに違いない。
気が済んだら帰っておいでよ。でも、私の家にこんな大きなテレビはないから、小さくなってから帰っておいで。
新宿の猫に好かれたい。
あの大きな瞳で見つめられたい。ふかふかの毛並みをひと撫でさせて欲しい。現実はそんなに甘くない。そういう邪な思いも、猫はちゃあんと見透かしているかもしれない。
だから猫カフェに通っている。
猫カフェの猫も邪な思いを見破っているのか、なかなか心を許してくれなかった。何度か通っているうちに膝に乗ってくれるようになった。
本物の猫のゴロゴロという喉の音を聞きながら、もしも新宿の猫に好かれたらどうしようかという空想に浸っている。
新宿の猫が帰ってきた。
あちらこちらの街頭ビジョンを転々として、そこかしこで爪を研いだり噛んだり蹴ったり。被害総額いざ知れず。何はともあれ新宿に猫は帰ってきた。
ぜひその姿を生で見たいと、大勢の人が街頭ビジョンの元に駆け付けた。猫は薄目を開けてそれを見ている。
「人間が騒がしくしてたら、また嫌になって逃げちゃうんじゃない?」と、誰かがそういうことをぽつりと言って、ざわざわしていた人間がはっとした。
その日の新宿は、世界で一番静まり返っていた。