探偵不在


「いくら仕えてる主人の為とは言っても、流石にどうかと思う」
 ベンチの上にアタッシュケースを置いて仕事道具を片付けていた櫻子に、井泉は後ろから声を掛けた。西園寺の姿は無く、先に車に戻ったらしい。
「あら、そうですか?」
 櫻子は顔だけで井泉を振り返って、こてりと首を傾げる。
「そうですかって……今日のは危険過ぎたとか、自分で思わないのか」
「いいえ、特には」
 アタッシュケースに向き直り、櫻子は手を止めず答える。その淡々とした態度に、井泉は思わず言葉に詰まってしまった。肝が据わってるにも程がある。
「…………素手ならまだしも、向こうは刃物を持ってたんだぞ」
 隙を突いて拘束を解いた犯人は刃物を隠し持っていた。警察官を振り払った男はすぐ近くに居た西園寺に襲い掛かり、櫻子がそれを庇うようにして咄嗟に眼前に躍り出る。すんでのところで男は取り押さえられ、被害が出ることはなかったものの、一歩間違えれば大怪我を負ってたかもしれない。
 
 無傷で済んだから良いようなものを。
 諌めるように井泉は呟く。櫻子は一瞬手を止めたが、またすぐに片付けを再開した。櫻子の肩越しにアタッシュケースの中身が見えている。手袋やマスクを始めとした一般的な道具から、傍目には用途が分からない専門的な工具、はたまた法に触れそうなあれこれが理路整然とアタッシュケースの中に詰められていく。
「そう仰られましても……」
 櫻子は困ったように呟いて、アタッシュケースの蓋を閉めた。カチリと硬い金属音が鳴って、鍵が掛けられる。荷物はベンチの上にそのまま、櫻子は井泉に向き直った。足元まで伸びた黒いワンピースの裾が風を含んで翻る。
「それが私の仕事ですからね」
 薄く笑みを浮かべながら、櫻子は胸の前で両手を合わせる。右の袖口がスッパリと切れているのが井泉の目に留まった。その切り口から、西園寺を庇った時か犯人を取り押さえた時に付いたのだろうと予想できる。
「……ああ。仕事道具に傷を付けられたのは少々宜しくなかったですね」
 井泉の視線を辿り、櫻子も袖口の傷に気付いた。袖口をつい、と引っ張る。
「帰ったら繕わないと。それと、シミ抜きも」
「命を懸けてまでやることなのか? それ」
 我ながら意地の悪い問い掛けだと井泉は自嘲気味に笑うが、櫻子はまるで気にも留めない。吊り目がちな目がやおら細められる。
「ええ、坊っちゃんの手足となって働くのが私の――櫻子の仕事ですもの。例え坊っちゃんが死ねと言うのなら幾らでも」
 櫻子は躊躇する様子も見せずそう言ってのけた。口角は上がったまま、笑みは崩れない。
「……勿論、坊っちゃんがそんなこと仰らないのも承知の上ですけれど」
 返答しあぐねている井泉の様子を察してか、櫻子は冗談めかした口調で肩を竦めた。それでも細められた目の奥は笑っていない。
 
「……さて、もう失礼しても宜しいでしょうか。すみませんが、坊っちゃんを待たせておりまして」
「ああ……うん、もういい。引き止めて悪かった」
 井泉がそう言うと、櫻子は失礼します、と重たげなアタッシュケースを涼し気な顔で持ち上げた。
 軽く頭を下げ、櫻子は出口に向かって歩を進める。五、六歩歩いたところでぴたりと足を止め、思い出したかのようにぽつりと呟く。
「――皆様方、坊っちゃんのことを邪険に扱われますが、本当にお優しい方なんですよ。幼い頃から見てきましたが、変わらず、ずっと」
「……いや、やっぱり待った。アイツの幼い頃って言ったか? 君、いったい今幾つに--」
「あら、あらあら」
 井泉の言葉は鈴を転がすような声に遮られた。櫻子が井泉に背を向けたまま、くすくすと少女のような笑い声を上げている。呆けた顔をする井泉に、振り向いた櫻子がからかうような視線を送る。
「女性に年齢を聞くのは無作法ですよ。教わりませんでした?」
 知るか、と井泉が無愛想に返すと、あらそうですか、と残念そうに櫻子は肩を竦めた。
「それでは今度こそ本当に。失礼致します」
 空いている方の手でスカートの裾を摘む。片膝を曲げ、もう片方の足を後ろに引く。そのまま頭を下げ、カーテシーを行った。ゆっくりと頭を上げると、流れるような動作で出口に体を向ける。井泉が静止を促すが、踏み出した足は止まらない。気味が悪いくらいに規則正しい靴音を立てながら、櫻子の背中は遠ざかっていった。
あとがき 2020/09/27改訂
以前は井泉の名前が決まっていなかった時に書いたので、差し替えついでに若干書き換えました。出来ればお互い死んで欲しくないし死にたくないです。でも死ねと言われれば死ぬと思います。