(注)御曹司探偵シリーズのセルフ二次創作品です。
本編には一切関係ありません。


お慕い申し上げております。


人を刺した。予め入念に計画を立てていたお陰で、思いの外スムーズに事が進んだ。未だに手が震えているのは緊張よりも興奮の方が大きいと思う。ポケットに手を突っ込んで震えを隠す。震える手には、包丁の切っ先がずぶずぶと肉の中に沈んでいく感触が残っている。
 人混みの中では背の高いアイツを見付けるのも近付くのも拍子抜けするくらいに簡単だった。善良な一般市民を装って、人混みに紛れて何気ない顔で足早に近付いて行く。バレないように尾行するのは昔から得意だった。すれ違いざま、ぶつかるフリをして上着の下に隠し持っていた包丁を脇腹に突き立ててやった。
 緊張と興奮。思い出すだけでグラグラする。持っている包丁までもが自分の手足の一部になったかのように錯覚して、上等なスーツの繊維が一本一本ぶちぶちと千切れていくのが手に取るように分かった。ぶつかったままの勢いを殺さないように、体重をかけて更に奥まで押し込んでいく。鶏や牛なんかを切り分けるのとは訳が違う手応えで肉がどんどん切り裂かれる。
 鮮明な感覚を思い出してはニヤつきそうになる顔を抑えて、口を真一文字に結び直した。まだだ。こんなところでバレる訳にはいかない。
 幸いなことに今の所全て計画通り行っているようだ。携帯で確認した臨時ニュースでは、犯人として書かれている男の特徴はさっきまで着ていた濃紺のニット帽にグレーのセーター、黒のズボンになっている。顔も身元もバレていない。着ていた服は予め待機させておいた仲間に渡して、別の服を受け取って着替えた。このまま手筈通りに用意させた車に乗り込んで、あの人を迎えに行けばいい。
 後はトントン拍子だ。パスポートも準備したし出国に先立っての手回しもしてある。向こうに移ってから数年間はあまり派手な行動はできないかもしれないが、それでも、事態が収束してから二人仲睦まじく暮らすことも難しくはないだろう。あの人だって、きっと喜んでくれるはずだ。必ず幸せにしてみせる。いや、俺たち二人なら絶対幸せになれる。
 
 待っていてください櫻子さん。
 俺はあんな男とは違うんですよ。
 
 
  * * *
 
 
 病室と廊下を区切っていた木目調のドアが突如として開かれた。ベッドの上で上体を起こして座っていた青年、西園寺慶一郎は手元のノートパソコンから視線を離し、片手を上げて軽く振る。
「やあどうも。井泉刑事」
 明朗に客人を迎え入れる西園寺とは対象的に、井泉刑事と呼ばれた男--井泉典彦はひどく疲れた顔をしている。
「どーなってんだよこの病院は……面会するだけで三十分以上待たされたぞ……」
「当たり前じゃないか」西園寺はノートパソコンを脇にどけて、わざとらしく肩を竦めてみせた。「俺が死に損なったと聞き付けて、犯人が再び殺しに来ないとも限らない。用心しておくに越したことは無いんじゃないかな」
 井泉はフンと鼻を鳴らす。
「にしても待たせすぎだろ。既に一回来てんだし、おまけにこっちは警察なんだぞ」
「警察だからって絶対安全とは限らないのは今回で思い知ったことだろ」
 井泉はぐ、と言葉に詰まる。
 ややあってから渋い顔をして手に持っていた籠盛りのフルーツをベッドの上に乱雑に投げ置いた。ベッドの横に立っていたスーツ姿の男--西園寺がいつも”爺や”と呼んでいたこの老人は確か以前に松下と名乗っていた筈だ--が慣れた手付きでそれを受け取る。西園寺は物珍しそうな目付きで一連の動作を眺めてから、口を開いた。
「手土産を持ってくるなんて珍しいな。……前回は持ってこなかったくせに」
「俺だって不本意だ」井泉は近くにあった椅子を引き寄せ、乱暴に腰掛けた。「持っていけって怒られたんだよ」
「へえ? 誰に」
 眉間の皺を深くする井泉に向かって、西園寺は面白がって片眉を上げる。
「警視監」
「今の警視監、って言うと……」
 呟いて、宙を仰ぐ。井泉が淡々と警視監のフルネームを告げると、西園寺は少し考え込む素振りを見せてから、納得したように頷いた。
「ああ。それなら俺じゃなくて父の方にだな。手土産どうも。宜しく伝えておいてくれ」
「……ほんとにどうなってんだよ。この病院も、お前の家も……」
「世の中には色々な事情があるってことさ。……正直なところ、俺も詳しくは知らないが」
 西園寺はやれやれと頭を振り、「さて」とわざとらしく畏まってみせた。
「で、今日は何のご用事で? 警部補殿。……まさか、本当に見舞いの品を持ってきただけじゃあないだろうな」
「んな訳あるか。事情聴取に決まってんだろ」
 井泉の言葉を聞いて、西園寺は心底面倒臭いといった様子で顔を歪ませた。胸の前で腕を組み、大きく溜め息をついた。
「またそれか」
「またってことはないだろ。いつも散々邪魔してるんだから、ちったぁ捜査に協力しろ」
「協力するも何もなあ……前も話した通り、刺されるような謂れは無いよ」
「どうだかなぁ」
「はぁ? なんだその言いぐさは。酷い言い掛かりだな。……そもそもだ、犯人についてはそちらの方が詳しいんじゃないのか。ついこの間まで一緒に働いてた仲なんだろう?」
「お前だって現場で何回も顔を合わせてるだろ。知らぬ存ぜぬはまかり通らねえぞ。……ま、尤も、お前は勝手に押し入って来てるだけだけどな」
 日頃から仕事場を踏み荒らされている意趣返しのつもりだろうか、井泉はこれ見よがしにせせら笑うが西園寺は眉一つ動かさない。
「同じ場所に居たってだけだよ。顔を合わせただけ。話したことも無い無関係の人間で……ああいや、うん、もしかすると、挨拶を交わしたことぐらいはあるかもしれないなあ」そう言って、大袈裟に肩を竦める。「……兎も角だ、どれだけ警部補殿が熱心にお尋ねになろうとも、これ以上はこの前と同じ話しか出てこないよ」
 知らないものは知らないんだ、と西園寺は腕を組み直す。毅然とした態度がどこまでも癪に障る。
「……分かった。もういい。お前と話してても時間の無駄だ。こっちはこっちで好き勝手調べさせてもらうからな」
「そうしてもらえると助かるよ。入院中とは言え、俺もなかなか忙しいんでね」
 西園寺は脇にどけたノートパソコンを顎でしゃくって指し示した。
「怪我人は大人しく寝て養生しろよ」
「出来る限りはそうするさ。……ま、精々頑張ってくれ」
「いちいち一言多いんだよなぁお前は……」
 溜め息混じりに井泉は立ち上がり、横を向いた途端ぎょっとした。
 いつの間に移動したのやら。松下が横に立って鞄を手渡さんとしている。つい先程まで西園寺が座るベッドを挟んだ反対側の椅子に座っていた筈だ。井泉は出来る限り平静を保ちつつ、鞄を受け取り軽く頭を下げた。
 
 廊下に繋がる扉に向かって先導する松下の後を追う。老人にしては真っ直ぐ伸びた背中を見て、井泉ははたと疑問に思う。
「そういえば、」
「うん?」
「今日は一緒じゃないんだな、あのメイドは」
 井泉はいつも西園寺の周りをうろちょろしているメイドの姿を思い出した。こういう役割はいつもならあのメイドが担っていた筈だが、今日は珍しくこの場に居ない。
「ああ、櫻子なら忙しくてね。俺が動けない分いろいろとやってもらってる。あれはあれでまた働き詰めだな」
「へえ。優秀なことで」
「お陰様で助かってるよ。…………で、警部補殿はいつまで居座る気なんだい。用が済んだならさっさと帰った帰った」
 西園寺はしっし、と顔の前で手をひらひらさせる。虫でも追い払うかのような仕草を視界の端に捉え、井泉は扉を開いていた手を止めた。
「ああ!? 何だお前、人が折角来てやったってのに、」
 中途半端に扉を開いたまま病室内を振り返る。一発ガツンと言ってやろうと口を開き--。
「病院内ではお静かに」
 --たまたま通り掛かった看護師にぴしゃりと一喝された井泉は、口を半開きにしたままゆっくりと廊下に歩み出し、舌打ちを一つ鳴らすとするすると静かに扉を閉めた。扉が完全に閉まり切る。西園寺がフンと鼻を鳴らす音だけが最後に響いて、病室内には再び静寂が訪れた。
 
 
  * * *
 
 
 いつの間にか眠っていたらしい。
 仲間が用意した車に乗り込んだあたりから、記憶が途切れている。あんな大仕事をやってのけた後だ、緊張から解放された反動で眠ってしまったに違いない。
 さて、自分は今どのあたりにいるのやら。そろそろあの人を迎えに行く頃だろうか。状況を確認するために身体を起こそうとして、異変に気付いた。
 
 身体を動かせない。それどころか、車にすら乗っていないようだった。両手足を拘束され、どこか地面に転がされているようだ。体に触れる地面は固く、冷たい。後ろ手に回され、ご丁寧に両手両足を縛られているが猿轡の類はされていなかった。ここは何処なんだ? 一体どうして? もしかして、金だけ取られて裏切られたのか?
 頭の中で色々な憶測が渦巻くが、次の瞬間聞こえてきた鈴を転がすような声で緊張も不安も、何もかも全て吹き飛んだ。
 
「あら、目が醒めました?」
 
 声が聞こえて、慌てて振り向く。尤も、手足を縛られているので無様に転がることしか出来なかったけれど。櫻子さんの前でこんなみっともない姿を晒すのが恥ずかしい。一体誰がどうしてこんなことをしてくれたんだ、と怒りがふつふつと込み上がってきた。
 
 足首まで隠れる真っ黒いメイド服に、真っ白なエプロンドレス。頭にはレースの付いたカチューシャと、いつも通りの姿をした櫻子さんは、数人の男を引き連れて俺を見下ろしている。櫻子さんが目線で合図を送ると、右後ろに立っていた男が櫻子さんに棒状の物を手渡した。棒を両手で握り締め、何度か素振りをする姿を見てからそれがゴルフクラブであることを理解した。
「な、何なんですか。それ、一体……」
「懐かしいですねえ、この感じ」
 櫻子さんが素振りをする度に、風を切る鋭い音がする。
「あれももう、すっかり昔のことになりましたねえ。坊っちゃんがゴルフレッスンを受けられた際、折角だからと私もお誘いくださって、何度か一緒に学ばせて頂いたことがあるんです」
 素振りを辞めた櫻子さんはこちらに向かって歩みを進める。コンクリートの床に足を踏み出す度に建物全体に足音が響いて、鼓膜がビリビリ震えている。
「坊っちゃん、来週にはゴルフのコンペティションに行かれる予定だったんです」
 櫻子さんが歩く度、切り揃えられた黒髪が揺れる。吊り目がちな翠眼が規則正しく瞬きを行っている。
「ですから、私がその代わりを……といったところでしょうか」
 櫻子さんは俺の目の前で立ち止まる。口元にはいつもの優しげな微笑みを携えて。
「代役なんて烏滸がましいですけれどね」
 目を細め、茶目っ気たっぷりに笑う櫻子さんはどこまでも愛らしい。
「櫻子さん、あの、俺、櫻子さんのために飛行機、チケット取って、金も集めて、家も用意して。パスポート、も、あります。だから、一緒に、」
「あら、私のためにですか?」
 櫻子さんは少しだけ目を見開いた。それから、困った様子で頬に手を添える。
「すみませんがご希望には添えないと思います。暫くお仕事が忙しくなりそうなもので……」
「そ、そんな仕事なんて放っておきましょうよ。……お忙しいんでしょう? いつもアイツに、仕事押し付けられてて、」
「そうですねぇ……それもいいかもしれませんが、申し訳ありません。やはり今回はお断りさせて頂きます。私は任せて頂いた仕事はきちんと済ませてしまいたいので」
 そうやって健気に笑う櫻子さんを見て、やっぱり素敵な女性だと改めて確信した。
 櫻子さんがまた一歩踏み出した。
 眼前にある革靴に映り込んでいる自分と目が合う。そんなに悲しそうな顔するなよ。また今度、櫻子さんと予定を合わせればいいじゃないか。
「それじゃ、また、次の機会に」
「ええ、また」
 櫻子さんの両目が細められる。
「次がもしあればの話ですけれど」
 ヒュン、と風を切る音が聞こえた気がした。
 
 
  * * *
 
 
 しょりしょりしょりしょり。
 こちこちこちこち。
 かたかたかたかた。
 
 さっきまでの喧騒はどこへやら。静まり返った病室には林檎の皮を剥く音と規則正しい時計の秒針の音と、キーボードの打鍵音だけが響いている。
「よろしいんですか?」
 林檎の皮を剥き終わった松下が柔和な声で沈黙を破った。西園寺はキーボードを叩く手を止めない。
「何が」
 ぶっきらぼうに聞き返す。櫻子のことですよ、と松下は果物ナイフを片付けながら答えを返した。
「ああ……まあ、別に、いいんじゃないかな」
「またそんな、別にだなんて適当なこと仰られて」
 呆れた様子で松下が呟くと、打鍵音がピタリと止まった。
「なんだよ、俺だって別に考え無しに放任してるわけじゃないんだぞ。たまには手綱を離すことも必要だと思ったんだ」
 切り分けられた林檎が器に盛られ、ベッドテーブルに置かれる。スリープ状態にしたノートパソコンを松下に手渡しながら西園寺は話を続ける。
「……正直なところ、俺もアレの扱いには困っていたところだ。櫻子も気にしてた様子だったし、これはこれで丁度良かったんじゃないかと思うよ」
 井泉にはああ説明したものの、犯人のことを完全に知らなかった訳ではない。現場に踏み込んだ際に奇異の目で見られるのはいつものことで、その視線の中に違う毛色の物が混ざればすぐ気付く。それでも会話を交わしたことが無いのも刺されるような覚えが無いのも事実だし、嘘は言っていない。
 少し前に交わした会話を思い返しながら、西園寺は器の林檎に手を伸ばた。
「おや、では最初からこうなると見越していたんですか?」
「まさか!」手を止め、心外だと言わんばかりに声を張り上げる。
「俺だってこんなことになるのは想定外だ。出来ることならもっと穏便に済ませたかったよ。見たか? あの血の量」
「ええ、ええ。見ましたとも。流石の私も肝が冷えました」
「なら分かるだろう。……それとも何だ、爺やは喜んで腹を刺されるやつがいると思っているのか?」
「さて、どうでしょうねえ……」松下は呆れを含んだ声色で独りごちるように呟く。「慶一郎様が何をしでかすか分からないのは、昔からのことですから」
「全く、信用ならないなあ……」
 西園寺は決まり悪げに苦笑する。林檎に齧り付くとみずみずしい音が鳴った。
「櫻子のことだ。放っておいても綺麗サッパリ片付けてくれることだろう。何はともあれこれで万事解決さ。警部補殿には少々悪いがな」
 空いている方の手で林檎を取ると松下の眼前に突き出す。
「終わり良ければ全て良し。そうだろう?」
「慶一郎様が仰るのなら、きっとそうなのでしょうねぇ」
 松下は差し出された林檎を受け取りながらほほほ、と楽しげに笑い声を上げた。
あとがき 2020/09/27改訂
警部補表記を井泉に差し替えました。